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上田馬之助のレスラー生活

上田馬之助といえば、日本人でありながら日本のリングでヒール(悪役)として活躍したレスラーだ。
その上田馬之助が21日、午前、呼吸不全のため大分県臼杵市の病院で死去したという。

すでに現役の方は15年前に退いていた。96年3月に、大日本プロレスの巡業中交通事故にあったためである。それ以後は下半身が不自由になり、車椅子生活を余儀なくされていた。

大分県臼杵市内の自宅で恵美子夫人とリハビリに励んでいたが、今回は果物をのどに詰まらせて窒息死したという。

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上田馬之助は1958年、大同高校を中退して大相撲の追手風部屋に入門。60年に力士を廃業して日本プロレスに入門した。時は力道山が社長兼エースの時代。ジャイアント馬場、アントニオ猪木らとは数日の違いで「後輩」となる。

デビューは61年。その後、プロフェッサーイトーと名乗り、アメリカマットや日本のリングに上がっていたがトップには立てず、アントニオ猪木が日本プロレスに戻って馬場とのBI砲コンビを結成して活躍すると、松岡巌鉄とのセメントコンビで再びアメリカへ。

帰国後も中堅レスラーをつとめていたが、馬場や猪木が日本プロレスを脱退すると、やっと順番が回ってきて大木金太郎とインターナショナルタッグ選手権を短期間保持した。

体もあり、技もガチンコで決められる強さがあるともいわれたが、いかんせん、プロ選手としての華がなかった。

所属の日本プロレス崩壊後は全日本プロレスに合流。しかし、さしたる晴れ舞台を用意されることもなく、半年で離脱。合流時に日本テレビとの間で離脱に関する厳しい契約を結んでいたため、契約が切れるまでは日本で試合ができずアメリカを転戦。そこで金髪の悪役レスラーとしてのキャラクターを作り上げた。

帰国後はまず国際プロレスのリングに上がり、団体の看板のIWA世界ヘビー級選手権をラッシャー木村から奪取。その後は新日本プロレス、全日本プロレスなどで、タイガー・ジェット・シンとのコンビで各団体のタッグタイトルを奪った。

レスラーとしては悪役だが、ファンやタニマチとの付き合いは紳士的だった。当時、ストイックに悪役を演じていたタイガー・ジェット・シンもそうした場に誘われたため、キャラクターが壊れてしまったと当時のレフェリー・ミスター高橋は述懐している。

アントニオ猪木が日本プロレスを離脱する際、クーデターを企てた裏切り者のレッテルを貼られて除名されたが、そのときの密告者が上田馬之助といわれ、またクーデターには当初ジャイアント馬場も加わったといわれたため、三者の間には微妙な溝ができた。

タイガー・ジェット・シンと全日本に戻ってからも、決してその溝は埋まらず、結局新日本プロレスに出戻ってしまった。

上田馬之助さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。

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